1349年、宋で修業を終えた禅師に随従して一人の中国人が来朝。
その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。
林淨因は奈良に居を構え、お饅頭を作って売り出したのが塩瀬の歴史の始まりです。
当時、禅宗寺院は宗教学問の場だけでなく上流階級の社交場として使われ、淨因の提供するお饅頭の甘味は上流階級に大評判となりました。その後、林淨因の子孫が奈良と京都に別れて営業することになります。
1467年、応仁の乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改めます。
再び京都に移った塩瀬は大繁盛。
8代室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝・後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領しました。
それから100年後、塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康に愛好されます。
徳川家康の江戸開府に時代を同じくして江戸に移り商売を始めました。

塩瀬の始祖・林淨因は、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、寺院を対象にお饅頭商いを始めました。
肉食禁止の僧侶のために小豆を煮つめ、甘葛の甘味を加えて皮に包んで蒸し上げました。当時の甘味には干柿・焼栗・小豆の呉汁のようなものしかありません。画期的なお菓子の誕生でした。
淨因のお饅頭は天皇に献上され、天皇は大変喜んで淨因を寵遇し宮女を賜りました。結婚に際し、淨因は紅白饅頭を諸方に贈り、今日、祝い事に紅白饅頭を配る習慣はここより始まっています。
林淨因の子孫・紹絆は、中国で製菓を修得後日本に帰り中国の宮廷菓子に学び、山芋をこねて作る「薯蕷饅頭」を売り出しました。この「薯蕷饅頭」が現代塩瀬に伝わるお饅頭の元となります。