東京・渋谷を舞台に繰り広げられる、不思議な物語たち。ちょっとした時間に気分転換できるような、オムニバス形式のショートショートをお届けします。
第1話 嘘つきリップ
「あれ?先輩、リップ変えました?」
取引先での商談を終え、午後3時に帰社したユミがデスクにつくと、隣席のエミリが目ざとくリップに気がついた。
「前から持ってた色よ、でもつけたの久しぶりかも」
「きれいなローズカラーですね。先輩、美人ですよ」
駅で買った缶コーヒーを飲み干すと、飲み口にリップがべっとりとついてしまった。ユミは拭くことなく、そのままキャップを閉めて、エミリに軽口で返す。
「いつもでしょ、美人なのは」
「はいはい、で、どこのブランドですか?」
「なんだっけ、あ~名前ど忘れしちゃった。ほら、あのぉ~最近アイドルの男の子がアンバサダーになったぁ~海外の……結構新しめの……」
ユミが天井を仰ぎながら、懸命に記憶の引き出しを探るが、なかなか出てこない。最近なんだか物忘れが激しい気がする。
「あ、わかりました。なんかコロナ前に出たリップが話題になったところですよね」
ユミは、後輩の鋭い指摘にドキッとした。ユミが今つけているのは、まさにコロナ前に話題になった『マジックリップ』だからだ。
そのリップのキャッチコピーは「私が変わる」だった。
唇にのせると、たちまちその人に似合う色合いに変化して、表情を引き立て、まるで別人のようになる魔法のリップ。当時販売されたのは、レッドとローズの2色だけ。発売前から多数のメディアで取り上げられ、鳴り物入りで発売すると瞬時に完売になり、さらに話題を呼んだ。当時、たまたまショップを覗いていたユミは、発売前の予約枠に滑り込み、最後の1本をなんとか入手できたのだ。
しかし人気はそう長くは続かなかった。新型コロナウイルスが流行してマスク生活に移行すると、問題が発覚したのだ。そのリップは非常に落ちやすく、マスク内側にくっきりと唇の形に色が移ってしまったのだ。評判ががた落ちしたリップは追加生産されることなく、販売停止となり、幻のリップとなった。
それでもユミがリップを使い続けるには、理由がある。なぜなら販売停止になった本当の理由は「落ちやすさ」ではないとユミは気付いたからだ。信じられないような仕掛け、いや、魔法がこのリップにはかかっているのだ。
『マジックリップ』はその人に似合う色に変化するのではなく、リップをつけた本人を、絶妙な美人に変身させる。正確に言うと、”実際”の本人になにも変化はない。周囲の目をあざむいて、違和感なく、その人が元々美人であったかのように見せているようだ。
もちろん、それは嘘だ。リップのつく真っ赤な嘘だ。でも誰も気づかない。つけた本人でさえも、鏡を覗き込めばうっかり騙されてしまうので、リップが落ちたときにようやく現実に気付く。それほど、魔法は本物だった。
そしてリップの魔法は、合コンで大いに活躍した。これまで一度も、街中のキャッチにさえ声をかけられたことがなかったユミだが、リップをつけて参加した合コンでは、男性陣が我先にとユミに連絡先を聞いてきたのだ。あの快感を、優越感を、ユミは生涯忘れることはないだろう。
もちろん、ただ「モテ」にリップを費やしたわけではない。ユミは1年前に合コンがきっかけで知り合ったヒロキから告白されて、今のところ(リップの力を借りながらも)順調にお付き合いが続いている。ただリップの嘘を明かせていない。
大事に使っていても、結局リップは消耗品だ。既に販売から4年経ち、ユミのリップはブラシですくいとって薄く塗るしかできず、もうあと数回分しかない。もう嘘を清算するときが迫っていた。
そんなとき、ヒロキから「親に会ってほしいんだ」と言われた。手には、美しい一粒のダイヤが輝く指輪が握られていた。
ユミは嬉しさで頭がおかしくなりそうだったが、その分、絶望にも囚われた。リップの嘘に頼りすぎて、とうとうここまで来てしまったと。食事中だろうと、キスの後だろうとリップが落ちそうなときは何度もつけ直していて、ヒロキには「リップ中毒」とからかわれたほどだ。
(彼はリップをつけてない私でも、愛してくれるだろうか)
ユミは素顔の自分を鏡に映しては、涙を滲ませた。素顔のユミは絶世の美女ではないかもしれないが、愛嬌のある表情で周囲の人々には好感を持たれていた。ヒロキの前にも彼氏はいたし、それなりに長く付き合っていた。しかし、美人な自分に酔いしれるようになってからは、自分本来の魅力を忘れてしまったようだ。ユミはリップを使うたびに、自信を失っていった。
(やっぱり、私はリップに頼るしかない。ああ、リップを探さなきゃ。彼の両親に気に入られるためには、彼と添い遂げるためにはリップが必要だ)
ユミは翌日、リップを販売していた海外ブランドの店舗を検索したところ、会社近くにある商業施設がヒットした。終業後に駆け込み、エスカレーターで6階まで上がり、目当てのブランドにたどり着くと、目についたショップ店員にすぐさま声をかけた。
「あの、4年前に販売していた『マジックリップ』ってもう売ってないんですか?」
突然話しかけられた女性店員は一瞬驚いたが、すっと平常に戻して、赤く光る唇の両端をきっちりと上げた。
「大変申し訳ございません。販売を終了しております」
「あの…似たような商品もありませんか?」
「大変申し訳ございません。販売を終了しております」
その毅然とした態度に違和感を覚えたが、丁寧に深々と頭を下げられて、ユミは食い下がることができず、肩を落とした。ショップの店員が「ない」と言うのならば、本当にないのだろう。しかしユミは諦めきれずに、そのあともリップが置かれた棚の周辺をウロウロした。
数十色と並ぶリップのラインナップを恨みがましそうに眺めていると、ふと端に「LIMITED」とシールが貼られたリップを見つけた。パッケージデザインが『マジックリップ』と似ているが、商品名は『ギルティ リップ』と記され、展開カラーも3色あるようだ。
ユミは、値段をチラリと見て思わず「うっ」と声を漏らした。他の定番ラインと比べて値段が約3倍。いくら海外ブランドで、円高の煽りを受けていたとしても、リップでこの値段はないだろう。しかし、ユミはなんとなく、このリップが気になった。
「すみません、このリップですが」
ユミは先程とは違う店員に声をかけた。
「ああ、そちらですね。先日入荷したばかりの期間限定品です。昨年3日だけ発売して、たちまち完売になったため、この度1週間だけの再販となりました。オリジナルのカラーピグメントがお客さまご自身の唇の色素に寄り添い、足りない色素を補ってくれるので、とても表情を明るく、肌もつややかに見せてくれますよ。ただ……」
眉毛をわかりやすくハの字にして、店員はこう続けた。
「落ちやすいのがネックでして、お客さまのお召し物を汚してしまう可能性があります。そのため、タッチアップも行っておりません。必ずお着替えの後に、唇に塗布していただくようにお願いしております」
(落ちやすい?)
ユミの表情の変化に気付いたのか、店員は慌てて弁解した。
「落ちやすさは保湿成分によるものです。オリジナルで配合しは、保湿とツヤを兼ねているので……おすすめとしては下地にこちらをお使いいただき、上からお手持ちのキープ力のあるリップを重ねると、発色、映え、うるおい、キープ力すべてを網羅できます」
ユミはプロの技を聞いて、なるほどなと感心した。
「実はあちらのスタッフも、このレッドをつけております。発色が良くて、肌の血色さえも良くなるんですよ」
その言葉を聞いてユミは、一人目の店員の態度が腑に落ちた。そして、しばらく逡巡したあと、清水寺の舞台から飛び降りる気持ちで、店員に「買います」と告げた。
次の週末、ユミは新しいリップをつけてハチ公近くの緑の電車の前で佇んでいた。ヒロキの実家への手土産に選んだ、話題のスイーツの紙袋を手に提げて。
しかしどうやら彼は寝坊したらしい。いつも時間通りの彼が10分すぎてもやってこない。ユミは、コンパクトミラーでリップをチェックする。店員に教えてもらった技を実践してみたら、今日は缶コーヒーにリップがつかなかった。魔法はしっかりかかっているようだ。
「ごめんごめん!待った?」
突然、一人の男性が、ユミに声をかけてきた。顔を上げると、見覚えのない男性だ。
「人違いですよ」
「え、あれ。あ、そうか。ごめんなさい」
その男性は慌てて頭を下げると、スクランブル交差点のほうへと歩き出していった。ユミは、なんとなしに、その男性の後ろ姿を目で追った。他意はない。ただ暇だったのだ。
彼は交差点を渡らずに手前で立ち止まると、ポケットから何かを取り出して口につけ始めた。
男性もファンデーションやコンシーラーで肌を整える時代だ。リップケアなんて日常の光景なので、ユミは男性の行動に違和感を覚えることなく、ぼーっと見続けていた。
しかし、その男性が振り返った瞬間、ユミは慌てて目をそらした。
ユミは、男性をずっと見続けていたはずだ。瞬きはしたが、人混みの中でもその男性を見失うことなく、ずっと見続けていたはずだ。
確かに、声をかけてきた男性は、ユミの知らない人だった。それなのに、その男性がリップを塗って振り返ると、その顔はユミの彼氏、ヒロキの顔にすげ変わっていたのだ。
(どういうこと? まさか……)
ユミが呼吸を整えてから顔を上げると、呑気に手を振りながら小走りで近づいてくるヒロキの姿が見えた。
「ごめんごめん!待った?」
「う、ううん、待ってないよ」
そう言いながらも、ユミはヒロキの顔を直視できずにいる。
「さ、行こう。親には連絡してあるから。ユミに会えるのを楽しみにしてるよ」
「う、うん」
山手線のホームに向かう途中、階段をのぼりながらヒロキの背中を見つめると、ユミはふと限定品『ギルティ リップ』の3色目がクリアだったことを思い出した。
(あなたも使っていたのね)
ホームにたどり着くと、ユミはまぶたを閉じて、先ほどの男性をもう一度思い浮かべてみた。
(もしかしたら、この恋はリップなしでもうまくいくかもしれない)
ユミはバッグからティッシュを取り出すと、そっと唇を拭った。
教えてくれた人
- 豆ばやし杏梨
フリーのコラムニスト。
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