SHORT STORY
シブヤ百色話 第2話『ハートネイルのおまじない』

2024.04.25

東京・渋谷を舞台に繰り広げられる、不思議な物語たち。ちょっとした時間に気分転換できるような、オムニバス形式のショートショートをお届けします。

第2話 ハートネイルのおまじない

「おはよう、新井ちゃん。ちゃんと休んでる?なんかげっそりしてるし、クマがやばいぞ?」

 新井サトコが見上げると、同期の朝倉が心配そうにこちらを見ていた。オフィスの白い壁に無造作にかけられた時計に目を向けると、短針は9を指している。

(もうこんな時間なのか)

「あ、うん、まぁね。ちゃんと休んでるよ」

 朝倉を安心させようと、サトコは笑って返事しようとするが、どうにも口角が素直に上がってくれない。せっかく話しかけてくれたのに、手もキーボードから離れられない。

 サトコは、昨晩取引先から依頼された急ぎの資料作成のために、始発に乗って出社していたのだ。約束の10時半まで、あともう少し。今が山場だ。

 様子を察してか、朝倉は心「ちゃんと寝なよ」と助言して去っていった。同じフロアにいる朝倉は、違うチームながらも同期のよしみで、よくサトコに声をかけてくれる。同期の男性陣の中では、確かモテるほうだったと思う。
朝倉は、ワークライフマネジメントが上手く、時には大胆に有休を取り、海外旅行へ行く。サトコのデスクの引き出しには、朝倉から贈られたさまざまな国の小物が詰まっていた。

 対して、サトコはワーカホリック気味であった。20代も後半に入り、新規プロジェクトのメンバーに抜擢されるなど仕事は充実していたが、生来の真面目な性格が祟って、うまく休めずにいた。

 役所の用事など、どうしても平日の昼間に休まなければいけない用事があるときにだけ、サトコは決死の思いで有休申請をする。しかし用が済めば、リモートで仕事をする。

 週末や祝日も、同じだ。平日にため込んだ家事をこなして、映画を1本見ればもう十分で、エンドロールを見ながら、金曜に残した仕事を思い出している。仕事を思い出したら、居てもたってもいられず、立派な営業資料をつくりあげてしまうのだ。

 朝倉のように海外旅行に行こうものなら、サトコは「みんな働いているのに、私ばかりが休んで、良い思いをして…」と罪悪感を覚える。

(よし、終わった)

 仕事は好きだが、取引先の無茶ぶりはサトコだって嫌いだ。小さな反抗心を中指に込めて、エンターキーを力強く叩く。メール画面を起動して、定型の挨拶文を入力して、資料を添付すれば、本当に本当の作業完了。

 サトコは首を下げ、猫のように首筋から腰まで一直線にうーんと伸ばす。固まっていた背筋がほぐれて視界が広がると、ふと爪先が目に入った。

「げ、割れてる」

 先ほどの中指「ターンッ」が災いしたのか、ジェルネイルにひびが入っていた。

 サトコにとって唯一ともいえる楽しみが、ジェルネイルだ。1ヵ月に1度、高校時代の友人で、ネイリストであるコトミに美しく整えてもらうのが、至福の時間だ。


 サトコはスマホを手に取って、直近の予定を確認する。ついでに前回の予約を見ると、ちょうど1ヵ月前に行ったきりであった。そもそもジェルネイルが寿命だったのかもしれない。チャットアプリを起動して、コトミに連絡すると、即レスで「OK」と入ったスタンプが送られてきた。

 サトコは割れたジェルネイルを指でつまんで、べりっと剥がした。自爪の表面が毛羽だってしまったが、仕方ない。応急処置に、デスクの引き出しを開けてネイルオイルを取り出し、ちょいちょいと中指の爪に塗った。



 平日の朝10時、普段なら会社でPCとにらめっこしている時間に、サトコは渋谷駅に降り立った。コトミが昨年オープンさせたネイルサロンは、宮益坂を少し青山方面に上がったところにある雑居ビルの3階にある。
 
 エレベーターを降りて、すぐ目の前にある扉を開けると、コトミの明るい声が聞こえてきた。

「いらっしゃいませ!あ、サトコ!お待ちしておりました~」

 サトコは笑顔で応えた後、勧められた席に座った。

「1ヶ月ぶり。どう、休んでる?」

 サトコは人に会うと、大体いつもそう聞かれる。だからサトコも返事を定型化させ、どんなときでも「まぁね」と答えるようにしている。

「わ、やだ!手ぇつめたっ!!ちょっとこれは良くないよーほら」

 ホットタオルで両手を温められたサトコは、じんわりと指先の血管が広がるのを感じた。雑談を交わしながら、コトミの手は古いジェルネイルを、へらで容赦なくガリガリと落としていく。そして丁寧にネイルオイルを塗りこみ、浸透させたところで、コトミはサトコと目を合わせた。

「さ、どんなネイルにしよっか?」

 机の上に置いてあるポップスタンドには、今月おすすめのネイルデザインが貼られているが、今月はどうもパッと決められない。

「ん~…、なんか、気持ちが明るくなるようなのがいいな」

 コトミは、サトコの曖昧な注文にもうんうんと頷いて、にっこり口角を上げた。

「おまかせってことだね。それじゃ、お楽しみに」

 コトミは慣れた手つきで、カラージェルを取り出して「ど・れ・にしようかな」と楽しげに色を探している。

(派手な色じゃないといいけど)

 サトコは高校時代からコトミの練習台となり、爪にさまざまなデザインを施されてきた。今更何をされたって驚きはしないが、社会人としての節度は守りたい。

 しかしコトミが最初に左手の小指にのせたのは、真っ赤なジェルだった。

 サトコの表情を察して、コトミはウィンクして言う。

「これはおまじない!隠すから大丈夫よ」

 コトミは赤いジェルで小さなハートを描き、UVライトで硬化させ、その上に今度は黒のカラージェルで猫のシルエットを描いた。サトコの左手の爪先から、黒猫の耳が覗いている。

「なんのおまじない?」


「サトコがちゃんと休みますように、って」

 そう答えると、コトミはちらりとサトコの大きなバッグを見て「どうせこの後、出社するんだろうけどさ」と付け加えた。



 コトミが察した通り、ジェルネイルの施術が終わるとサトコは出社して、事務処理を行った。わざわざ半休にしてまで片づけるものではないが、午前中に楽しい予定があると罪悪感を打ち消すためにも、出社したくなるのだ。

 18時、残りの作業を明日に持ち越すか悩んでいたところ、サトコは左手の小指に違和感を覚えた。そしてどこからともなく、猫の声が聞こえた。

「んにゃぁおん」

 サトコの前に座る同僚も突然聞こえてきた猫の鳴き声に驚き、電話をしながら辺りを見回している。

 サトコのいるフロアは3階であり、社屋の入口には守衛もいて、間違っても野良猫が入り込む場所ではない。ましてや会社の誰かが猫を連れ込むわけもない。

 また猫の声が聞こえた。今度ははっきりと、サトコの左手の小指から。

「んにゃあお」

 サトコが小指に目を向けると、爪に描かれた黒猫に、毛が生えてきていた。そして、だんだんと立体的に、盛り上がっていく。

「え、え、」

 ポンッと爪の上に、小さな猫の頭が生えると、くるりと振り返って黄色い目をサトコに向け、「んなぁお」と甘え声を発した。

「え、新井さんなの?」

 前の席から、電話を終えた同僚がデスクを覗こうと頭を上げる。

「え?いや、えっと、違います!すみません、今日はお先に失礼します!」

 サトコは急いでPCの電源を落とし、バッグにスマホを投げ入れて、駆け足で下りのエレベーターに飛び乗った。

 エレベーターの扉が閉まると、爪の黒猫は満足したかのように爪の中へと戻り、また元の「描かれた」黒猫になった。

(な、なんだったんだろう)

 サトコはエレベーターを降りて、小指の爪を眺める。触っても、固い爪の感触で、うんともすんともニャンともない。

 爪が落ち着いた様子を見て、(やはりもう少しだけ作業をしようか)とサトコはエレベーターのほうを向いた。すると、爪の黒猫はまた上半身を盛り上げ、今度は毛を逆立てて怒りだした。おもいっきり、サトコの小指に爪を立てながら。

「いたあっ!はい、ごめんなさい!帰ります!」

 サトコは、爪の黒猫に弁明しながら、社屋を飛び出した。突然の独り言に、周りにいた人々は驚いてサトコを見てきたが、そんなことを気にしてられないほど、黒猫の爪は痛かったのだ。サトコは涙目になりながらもう一度爪を見ると、黒猫はまたスルスルと爪の中へと入っていった。

(一体、何なのだろう)
 

 電車に乗っても、爪の黒猫は静かなままだ。

 混雑した車内で黒猫が鳴きださないように、注意深く爪を見守るが、微動だにしない。やがて最寄り駅に着き、スーパーマーケットで総菜を購入してから帰路に着くと、玄関のドアを閉めた瞬間に、また小指の爪が疼きだした。

「んなぁ~お」

 鳴き声と共に、ポンッと爪から黒猫が飛び出す。

 サトコが慌てて両手を差し出すと、黒猫はストンッと手のひらに着地し、いそいそと毛づくろいを始めた。爪の黒猫は、カプセルトイくらいの大きさで、少し長めの真っ黒な毛をまとっている。

「あ、あなた……え、え、ど、どうしたらいいの…」

 サトコは、必死にマンション規約が「ペット可」だったかを思い出そうとしていた。そもそもこれはペットとしてカウントされるのだろうか。いや、そもそもこの黒猫は現実なのだろうか。でもイマジナリー猫にしては、その豊かな毛並みは妙に現実感のある、ふわふわの触り心地であった。

 黒猫はサトコの手のひらから床へと飛び降りて、廊下を伝ってリビング兼寝室空間へと向かっていった。この小ささは気を付けないと、踏みつけてしまうかもしれない。サトコは少し距離をとって、黒猫から目を離さないようにした。

 黒猫は扉の隙間からするりと部屋に入ると、辺りを見回したのちに、ベッドの枕の上に乗り、まぁるくなって目を閉じた。どうやら今夜の寝床を決めたようだ。

 サトコは困惑しながらも、とりあえず総菜を電子レンジの中に入れて、タイマーをセットする。視界に入った小指の、黒猫がいた場所には赤いハートが鎮座していた。

(もしこのまま黒猫が部屋にいてくれたら、明日会社で騒がれることはないかも)

 小指の爪に描かれた赤いハートが、些末な問題に見えた。

(これくらい小さいハートなら会社でも大丈夫でしょう)

 サトコはネットで猫缶を買い、醤油皿に水を入れて、小さなプラスチックの箱に適当に引き裂いたティッシュや新聞紙やらを入れて簡易トイレをつくった。その間も黒猫は一切起きようとしない。

 久しぶりに早く帰った自宅ではもうやることがない。暇を持て余したサトコはお風呂の後、さっさとベッドに入り、小さな猫が乗る枕にぶつからないようにまるまった。窮屈だったが、小さな体のわりに大きく聞こえる猫のいびきに眠気を誘われ、サトコは目を閉じた。

 *

 サトコの予想は外れた。

 グースカ眠る黒猫を起こさないように、サトコは音を立てないように身支度をした。しかし、黒猫はいつの間にか、玄関の扉に手をかけるサトコの右腕の上にいて、器用に肩から回って左腕に伝い、当たり前のように左小指の爪の中に入っていった。

 もちろん、18時になると黒猫はまた会社で鳴きだした。唯一の救いは、周囲の席に人がいなかったことだ。

 サトコが黒猫の訴えを無視してキーボードを叩いていると、黒猫は爪から飛び出して、デスクの上を走り回り始めた。爪で書類をひっかき、ボールペンやらリップクリームやら、とにかくデスクの上にあるものを、小さな手ではたいて床に落としていく。

 ついにはキーボードの上に乗って、むやみやたらにキーを踏んづけていくので、サトコは大きく溜息をついて、PCの電源を落とした。

 もちろん自宅に帰っても、黒猫の監視は続く。サトコがPCを立ち上げようものなら、黒猫が飛んできてはキーボードの上で跳ね回り、画面で爪とぎをする。トイレに隠れて会社用のスマホを見ていると、ドアの外から近所迷惑な抗議の鳴き声が延々と続く。

 休日も、黒猫はうるさい。いや、サトコが休みを謳歌していれば、黒猫だってうるさくなんてしない。映画を見ているときは、サトコのおなかの上で丸くなり、ぷうぷう寝息を立てて静かにしている。どうやら黒猫がサトコの小指の爪に住んでいる以上、サービス残業はできないようだ。

 そしてサトコは、生活指導も受けた。夜更かししてスマホをいじっていると、猫が割り込んできて画面を勝手に触るのだ(サトコは、肉球でスマホが反応するのを初めて知った)。何日も総菜や冷凍食品が続くと、食事中にじっとサトコを見上げて、罪悪感を煽ってくる。でも夕飯後のスイーツを許すあたり、どうやらサトコが「いかに生活を充実させるか」を監視しているようだ。

「ねぇ、最近定時上がりだよね!血色も良いみたいで安心した。ね、今度一緒に飲みに行かない?」

 サトコが見上げると、朝倉が笑顔を向けてこちらを見ていた。オフィスの白い壁に無造作にかけられた古びた時計を見ると、短針は6を指そうとしている。もうそろそろ定時だ。

「じゃあ、せっかくなら今日は?行ってみたいお店があるんだよね」

 朝倉はまさかサトコから誘われると思っていなかったらしく、目を丸くしたが、「この機会を逃すまい」と言わんばかりに急いで帰る支度をしに、席へと戻っていった。爪の黒猫を見ると、爪の中から黄色い目をこちらに向けている。そして大きな欠伸をしてから背を向けてしまった。

「おまたせ」

 朝倉が戻ってきたので、サトコが頷き、ジャケットを羽織る。

「そういえばさ、前に旅行で行っていたニューカレドニア?ってどう?」

 朝倉はまた目を丸くしたが、「あそこはいいよ」と言いながら、スマホを開き、サトコに見せる旅先の画像を探し始めた。

 ネイルを変えてから早1ヵ月、サトコは猫のようにのんびりと(否、だらだらと)家の中で休みを満喫したおかげで、もう休みに対する罪悪感を抱かなくなっていた。

 むしろ家の中でできる大抵のこと(寝だめする、積読していた書籍を読む、映画やドラマを見る、掃除をする、断捨離をする、自炊をするなどなど)はもうしてしまったため、「外」へと目を向け始めたのだ。

(もうそろそろお別れかな)

 黒猫のいる左手の小指はまだ大丈夫だが、他の爪はところどころ剥がれていた。サトコは黒猫への情も生まれ、「クロ」なんて名前をつけて可愛がっていたが、お別れしなければいけない。そのことを考えると、少し目頭が熱くなる。

 サトコは心に決めたのだ、猫を飼おうと。クロに似た真っ黒けの暴れん坊の猫を。

(でもその前にやらなきゃいけないことがひとつ)

 居酒屋で朝倉が席を立ったとき、サトコはコトミにチャットメッセージを送った。

『予約を入れたいんだけど、いつ空いてる?』

『いつでもいいよ。あ、おまじない効いた?左手の小指に赤いハートを入れると、新しい恋が始まるっておまじないだったんだけど』

 サトコはふっと息を漏らした。

『残念ながら!でも今度はハートの上に犬を描いてほしい』

『あれ、犬派だった?ごめーん!もちろんいいよ』

 サトコは左手の小指に向かって小さく「ごめんね、浮気はしないから」と謝ってから、コトミへの返事を打った。

『ううん、どっちも好きだよ。でも、ちょっと休みすぎて太っちゃったから、運動をしたくてね』

作者

豆ばやし杏梨

フリーのコラムニスト。

https://twitter.com/anri_mamemame

教えてくれた人

豆ばやし杏梨

フリーのコラムニスト。

https://twitter.com/anri_mamemame

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