東京・渋谷を舞台に繰り広げられる、不思議な物語たち。ちょっとした時間に気分転換できるような、オムニバス形式のショートショートをお届けします。
第5話 恐ろしい松(後編)
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パワハラで訴えられて上司から降格を下された松倉佳代は、にっちもさっちもいかない状況に困り果て、渋谷のスクランブル交差点で立ち往生していた。
何回目かの青信号を見送った頃、佳代は熱されたアスファルトに立ち上る蜃気楼に、自分の姿を見つける。
ぎょっとして目を凝らすと、ギャルの自分が幽霊のようにゆらりゆらりと揺れ、こちらをじぃっと恨めしそうに睨んでいる。まるで「どうしてそうなった」と言わんばかりに。
熱中症で幻が見えているのかもしれない。佳代は手持ちのペットボトルに残った水を飲み干し、目を閉じて深呼吸をしてから、もう一度交差点に目を向けてみた。しかし、ギャルの自分はどこにも消えない。それどころか、力強い歩みでこちらへと向かってくるじゃないか。
「ひぃっ」
小さく悲鳴を上げて、佳代は後ずさりした。そして恐ろしい顔で迫ってくる最強の自分に恐れをなし、佳代は背中を向けて無我夢中で走って逃げた。しかし道玄坂で人を避けながら走るのはなかなかに難しい。三センチヒールとはいえ、坂を駆けあがると足がもつれ、つりそうになる。
時々振り返るが、ギャルの自分は怨念のようにしつこい。幽体なんだか蜃気楼なんだかわからないが、人を通り抜けることができるもんだから、なんともずるい。
ようやくギャルの姿が見えなくなって安堵すると、油断したのか、佳代は女性に体当たりしてしまった。肉と肉がぶつかる鈍い音がして、坂の下方から来た佳代が女性にもたれかかるようにして倒れ込む。
「いっ……、ああ!! 申し訳ありません、本当にごめんなさい!!」
佳代が急いで起き上がり、女性を背中から抱えるように地面から起こすと、女性は「うーん」と低い唸り声をあげ、眉間に皺を寄せて、迷惑そうに女の顔を覗き込んだ。
「いつつ……ん~……あれ、……カヨ? は? あなた、松倉佳代?」
「え、え、どなたさま……あ、ああ~ユミ?!!」
女性は高校時代の友人、同じギャル仲間のユミだった。専門学校を卒業してから二十年ぶりの再会だが、学生時代の友人は容赦ない。
「やぁだ、カヨったら、すっごい痛いじゃない!! なに、どうしたの? え、今何してるの??」
文句を言いながらも、道の中央で座り込んで手を取り合う二人に、道行く人々が怪訝そうな視線を向ける。
佳代は質問に答えるよりも先に立ち上がり、謝罪の意を込めてお茶に誘った。四十を過ぎて、体力と身体機能の衰えを日々感じている佳代にとって、渋谷砂漠での逃亡劇はこたえるものがあり、早く体を休めたかったのだ。
「ずっと同じアパレルよ。エリアマネージャーになったの」
席についてレモンが香るお冷で喉を潤してから、佳代はようやく会話を再開させたが、先日の降格は伝えられなかった。
「そうなの、すごいわねぇ。ずっとでしょ? まぁ、うちら話してたもんね。カヨは、就職してから本物のギャルになったって」
「本物? え、うちら高校のときからギャルだったじゃない」
「え、誰が」
ユミのすっとぼけた顔に、佳代はうっすら不安を覚える。
「え、うちら。ユミと、アタシと、エリコとカナ」
するとユミが口に含んだアイスティーを盛大に噴き出して、店内に響くような笑い声を上げた。やがて自分の音量にはたと気付いて、周りに何度か頭を下げてから、佳代と向き合う。
「何言ってんの。うちらは、うそっこギャルでしょ? ちょっと、記憶を改ざんしたの?」
「そっちこそ何言ってんの。だって放課後よく渋谷に来てたでしょ?」
「まぁ、通学路だったからね。遊ぶなら定期圏内でしょ」
「スカート短くしてたし、ルーズソックスだって。メイクもしてたし」
「うん、放課後にね。いつもどっかしらのトイレでメイクして、付け爪して、ルーズソックスに履き替えて、あ、そうだ、ウィッグなんかも用意してたね。今思えば、完全にコスプレね」
うんうんとユミが腕を組んで、懐かしそうな表情を浮かべる。
「そもそも。うちらが意気投合したのって、今でいう陰キャ? だったからじゃん。チャイムが鳴ったら、クラスの皆は部活の子や友達とさっさと教室から出て行く中、いっつもうちらだけポツンと残ってて……それで、誰だっけ、あ、私か、が声かけたの。一緒に帰りませんか~って」
佳代の中の自画像が途端に古びて、ぼろぼろと崩れていく。
「……なんでギャルの格好したんだっけ」
「確か……カナが、“女子高生になったんだし、やってみたい”って言って、量販店に皆で決死の覚悟で飛び込んだのよ。メイクとかよくわかんなくて、とりあえず皆でお金出し合って、ギャル雑誌を見ながら買ったのかな? だから、四人が揃わないとフルメイクできなかったじゃない」
そうだ。試行錯誤してメイクをし合い、互いの不器用さを笑い合って、いつまでもメイクが進まなかった。
「ファーストフードによく行ったよね?」
「ギャルといえば、ファーストフード、プリクラ、カラオケっていう貧困なイメージしかなかったから。一通りのことは確かにやったね」
百円でハンバーガーを買うことができた当時、プリクラは一回三百円で、カラオケは一時間二九十円。たしか千円札一枚あれば、学生は豪遊できた。
「カラオケでオールしたよね?」
「あ~したした。あのとき、なんかナンパされなかった? センター街で。ほら、うちら慣れてないから、怖くなって、近くのカラオケに逃げ込んで。でも男の子たちのナンパスポットが店の目の前で、出るに出られなくて、終電なくなって、そのまま朝までオール。あのときはきつかったなぁ。持ち歌は尽きたし、部屋はタバコ臭いし、未成年だから補導されないか、内心ずっと怯えてたし……。だからか、あのときに見た渋谷の朝焼けは忘れられない。解放感がすごくて。ごみの匂いとか臭くて、カラスもいっぱいいたけど」
「そう……だったね」
「でも、楽しかったよね。ギャルになったのなんて、放課後のたった数時間だけどさ。学校じゃ存在感のない、真面目な私たちでも、なんか無敵になった気分で、ぜんぶ衝動的で。だから、専門学校に入ったとき、カヨがギャルになったのもわかった気がした……」
そうだ、ユミの話す通り、有限の時間は最高にして最強で、なんだってできた。その時間を無限に手に入れたくて、佳代は生まれ変わった。かつての自分を上書きして、友人と距離を置いてまで、ギャルの強さを渇望したのだ。
しかし今の佳代は、経験を積んで、話術を得て、思考力を磨き、大人になっていた。もう「ギャル」に頼らずとも自分の行動に意思を反映できる、十分な強さを手に入れていた。ああ、そうか私は大人になってしまったのだ。やっぱり後戻りはできないらしい。
「ギャル」と聞くと今はむしろ、梅谷の顔が浮かぶ。佳代を弾劾するためのパワハラ報告も、彼女なりの正義感がなせるものだった。ギャルは、声の小さい若者の味方なのだから。梅谷は、かつての佳代のように、理路整然風に語って秩序を保とうとする「大人」に真正面から立ち向かっているときなのだ。大人の気も知らないで。
「でもさ、今日会ってびっくりした。なんというか、お互い、美しく年を重ねたねぇ」
ユミの言葉にハッと正気を取り戻して、佳代は慌てて目を逸らした。偽りの強さでのし上がり、恐れられて、それでも「生涯現役守」にすがって足掻いて、そんな私が美しく見えているわけないじゃないか。
「私、実は、降格して……。結婚してもないのに、キャリアダウンして、スタッフ、部下にも怖がられて……この先、不安しかないよ」
謙遜するつもりが、思わず弱音を漏らし、涙を滲ませた。するとユミが「なんだ」とあっけらかんと返してきた。
「そんなの、結婚していても、子供を産んでも、同じ不安を抱えるわよ。そりゃぁ今から社長を目指せとかムリよ。でも、神様、自分だけ将来の不安をなくしてください、なぁんて都合の良い願掛けするくらいなら、今手に持ってるものできちんと勝負しなさいな。四十にもなって中途半端にあたふたしてたら、みっともないよ!」
大人なユミが、先日梅谷を説得しようとした自分と重なる。ああ、とんだブーメランだ。
「今度、四人で会おう。みんな、会いたがってるよ」
「うん、……ありがとう」
ユミと連絡先を交換して別れた佳代は、またスクランブル交差点を眺め、かつてそこに鎮座していた松に思いを馳せる。
憩いの松。恐ろしい松。ご神木の松。どの松も、同じ松だ。
「……あなたも自分を守るのに必死だったんだよね」
するとスマホが振動し、「課長」と画面に表示させた。
「お疲れ様です、松倉です」
「ああ、松ちゃん? 今いい? 実はさ、梅谷さんのことなんだけど」
「はい」
「この前泣きながら本社に電話かけてきて。もう一度、松ちゃんの元で勉強し直したいって。どう? 二人で、渋谷店で仕事できそう?」
「え、どうして」
「ん~……新しい環境で、色々気付いたんじゃない? 梅谷さんも大人になったんだよ」
ギャル梅谷も、奮闘しているようだ。
「わかりました。大丈夫ですよ」
「そっか、ありがとう。あと大事なことを言い忘れたんだけど、渋谷店は半年だけだから。そこで現場とじっくり向き合ってもらった後、松ちゃんには人事部に行って、研修担当として新人や新エリアマネージャーをみっちり鍛えてほしい。もしかしたら描いていたキャリアと違うかもしれないけれど、松ちゃんのキャリアは会社の資産だと思っているから、それをフル活用したいんだ」
課長は「電話でごめんね」と一言添えた。
「あ、ありがとうございます。……がんばります」
佳代は誰もいない空間に向かって何度もお辞儀をしてから、電話を切った。そして自分の足に合った三センチのヒールと共に軽い足取りで、地下鉄へ続く階段を下りて行く。一歩一歩踏み出すたび、佳代のトートバッグにつけられた「生涯現役守」はご機嫌に揺れていた。
教えてくれた人
- 豆ばやし杏梨
フリーのコラムニスト。
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