東京・渋谷を舞台に繰り広げられる、不思議な物語たち。ちょっとした時間に気分転換できるような、オムニバス形式のショートショートをお届けします。
第5話 恐ろしい松(前編)
松倉佳代は碑石のある言葉に釘付けになった。
「“恐ろしい松”」
渋谷区神南にある神社に「生涯現役守」なるお守りがあると聞いて、佳代はハンカチで汗を押さえながら、わざわざ駅から遠い神社まで足を運んでいた。
最近、東京の梅雨は六月も後半からそろそろと遅れてやってきては、気分屋な働きをする。昨日は東京一帯を厚い雲で覆って雨の壁をつくったのに、今日は雲ひとつない青空に忌々しい太陽がわが物顔で照りつける。
(こんな梅雨みたいな奴がいたら、性根を叩き直してやるもんだけどね)
佳代は鼻息を荒くしたが、石碑の文字がちらつき、口をへの字に曲げて、かぶりを振る。
(……こういうところだぞ)
その真四角の人工的な形をした石には、神社に祀られている弁財天の由来が書かれていた。要約すると、つまりこうだ。
道玄坂下(現代でいう、スクランブル交差点辺り)近くの宇田川河畔には、江戸時代からの見事な松の大木があり、旅の者や農民たちにとっての憩いの場所だった。
その松が“恐ろしい松”に変貌したのは、昭和初期、東京市が始めた区画整理で、松の除去作業に当たったときだ。負傷者が続出したため、人々は弁財天と竜神の祠をつくり、松を「ご神木」として移植して神南町に祀った。
松はその後枯れてしまったが、以降も信仰が続いている。今、佳代が参拝している神社に祀られているものは、戦後に遷座されたもののようだ。
(“恐ろしい松”か…)
佳代は手の中にあるお守りをギュッと握りしめた。
すっかりアスファルトの表面は乾いていたが、やはり湿気はあちこちに孕んでいて汗がとめどない。それでも耳をつんざくようなセミの鳴き声が聞こえないだけ、梅雨の合間に見せる夏景色は(まだマシ)だった。
(いつから夏が嫌いになったんだっけ)
二十数年前、佳代はギャルだった。
さも夏を満喫しているような日やけした肌に、金髪メッシュの髪色。太いアイラインに、重いつけまつげを添えた蒼いまぶた。ボディラインを出す服装において、露出は自分を魅せるアクセサリーだ。どんなに足が痛くなろうとも絶対十センチ以上のヒールしか受け付けなかった。
高校の友達と渋谷にきては、ファーストフード店でだべり、飽きもせずにプリクラを撮って、カラオケでオールした。くたくたの重い体を引きずりながら、寝ぼけ眼で見上げた黒いカラスが舞う渋谷の朝焼けを、今でも忘れられない。
あの頃、どんな男に声をかけられようと佳代たちは相手にしなかった。友達と一緒にいるだけで楽しかったからだ。親は荒れ行く娘の愚行を知らんぷりしていたけれども、あのときの自分は誰が何と言おうと最高にして最強だった。そして、誇りだった。
その後、ギャルを引きずったまま専門学校を卒業し、今の会社に入った。さすがにメイクや髪色は大人しくなったけれど、心には、いわゆるギャルマインドを堅持していた。
上司であろうと理不尽な要求は突っぱね、自分の「好き」を貫き、ポジティブさで同僚を励まし、信頼を勝ち得て、佳代はやがてカリスマ店員となり、店長、そしてエリアマネージャーにまで昇りつめたのだ。
しかし、いつから「強さ」は「怖さ」に変わったのだろうか。
夏嫌いの佳代がわざわざ外出してまで「生涯現役守」を求めたのは、先日課長に呼び出された件が関係していた。
「松ちゃんね、ちょっと今店舗の再編成を行っていてさ。八月から一旦、渋谷店の店長になってほしいんだよね」
佳代を新人時代から見知っている課長は、降格を告げる場でもフランクな言葉を用いた。私はいつから気を遣われる立場の人間になってしまったのだろうか。その配慮に、佳代は少し情けなさを覚えた。
「ほら、去年さ、うちの旗艦店が閉鎖されたじゃない? んで、片やECは絶好調なわけ。ってことで店舗効率を良くするために、各施設のブランドの入れ替えや出退店を決めていくんだ。ブランドの垣根を超えたスタッフの異動もあるし、混乱が生じて全体の売上が落ちるかもしれない。だから、松ちゃんにトップの渋谷店に入ってもらって、売上を保ってもらいたい。あとは、スタッフも改めて教育してほしいんだよね」
エリアマネージャーは、担当する地区(佳代の場合は、都内全五店舗)の各店舗の売上(予算)・在庫管理、販売員の採用・指導、商業施設担当者との折衝といったマネジメント業務のほか、欠員時の接客にも当たる。
会社全体に関わる大規模な再編成が行われるならば、エリアマネージャーとして各所で起こる混乱を収めたほうがいいじゃないか。
そんな疑問が浮かんだが、佳代は言葉と唾を無理やり飲み込んだ。カラカラの喉は、飲みこむために筋肉を大きく動かしたに違いない。課長は一呼吸置き、今度は静かな声で佳代に語り掛けた。
「梅谷さんのことは気にしなくても良い。他のスタッフにもヒアリングしたけれど、誰も松ちゃんを責めていなかったよ。今、竹林さんが頑張ってくれてるから、来週にでも渋谷店を覗いてあげてほしい。配属は再来週からだ」
「……かしこまりました。改めて宜しくお願い致します」
佳代は課長に恭しく頭を下げたが、内心は燻っていた。
渋谷店での一件。今年の四月に佳代が、渋谷店の元店長である梅谷に「パワハラだ」と訴えられた件だ。
梅谷は、佳代が池袋店の店長だったときに配属された新人の一人で、なつかれた印象があった。しかし店長になった梅谷は、佳代にたてつくようになっていた。
例えば、佳代が提案した都市型店舗統一のディスプレイ提案はことごとく無視され、月間売上が悪いと佳代の施策が悪いと責められ、新人に接客のあれこれを教えれば「あれは古いやり方だから」と悪口を吹き込まれた。
エリアマネージャーは各店の店長と協力し合って店舗運営に努めるのだが、これでは取り付く島もない。それでも個人売上と顧客を抱えた梅谷の実力を、佳代は認めていた。だからこそ、反抗的な態度を取られても苦い顔をしながら耐えてきたのだ。
しかし、とうとう一件が起きた。梅谷が、全店舗対象の売上促進施策に異議を申し立てた。
「ノベルティ・フェアなんて古い施策はもういりません。それなら、SNSで私がコーディネートした新商品を早期入荷して販売したほうがよっぽど売上を立てられますよ」
各人気店の店長はブランド公式のインフルエンサーとなり、個々のSNSアカウントで商品を紹介しており、梅谷は確かに人気で、年に一回プロデュースアイテムを展開するほどだった。
「一ヵ月前に納品を早めるのはムリよ。SNSが得意なら、ノベルティも宣伝すればいいじゃない。コーディネートに使えるアイテムだし」
「ノベルティなんて……SDGsが言われている時代にゴミなんてつくってどーするんですか。佳代さんの提案はすべて昔のやり方なんですよねぇ」
全店の施策は企画部が仕込んだもので、エリアマネージャーの権限の範疇ではない。本部代表とはいえ、佳代のせいにされるのは面白くなかった。
「全店の特性を考えたうえでの、共通施策なの。渋谷店だけ除外なんておかしいでしょ。いいから、フェアのDMを顧客様に一斉送信して」
間違ったことは言ってない。しかし、梅谷はいつもよりも強い眼差しで睨み上げてきた。
「またそうやって、上から押さえつけるつもりですか? それ、パワハラですよ。佳代さんって昔からスタッフが相談しても何もしてくれないし、結局は自分の意見を押し付けて、丸め込めますよね」
その日は、二人の相性がなんとも悪い日だった。何度も衝突してきた佳代と梅谷は、互いの逆鱗にいとも簡単に触れられるほど、距離が近づきすぎてしまったのだ。
「はぁ?! 文句言うなら、池袋店に勝ってからにしなっ。SNSにかまけてばかりで、先月の売上落としてんでしょ。ちゃんとお客様の顔を見て接客しなさいよ。店舗管理も雑だし、新人教育だって何よあれ、ロープレだってグズグズだし。あんた、店長職舐めてるんなら、辞めてもらうわよ」
ストック内での会話だったが、レジにまで声が届いたらしい。おそるおそる、副店長の竹林が「あの……大丈夫ですか?」と声をかけると、梅谷はこれ見よがしに泣き出した。
「そんなに強く言わなくてもいいじゃないですかっ!! だから皆に怖いって言われるんですよ! アタシはお店のことを考えてSNSをやってるのに! 課長に報告しますからね」
その後「パワハラ」報告を受けた課長は、五月に各所をヒアリングして周り、六月に梅谷をSNSが不得手な別ブランドにテコ入れ要員として異動させた。そして、七月に入ってようやく佳代に「降格」という制裁を下したのだ。
(皆に怖いって言われるんですよ!)
(恐ろしい松)
三十度を超す外気温にもかかわらず、佳代はドキリと胸を鳴らし、冷や汗をかいた。佳代が販売スタッフからクレームを入れられるのは、今回が初めてじゃない。
店長時代に「言い方がきつい」、「威圧的」、「上から目線」などとリークされて、そのたび課長に口頭注意を受けてきた。ちょっと前までは佳代の口調も教育の範囲内で「厳しい」だけで済まされたが、もう「パワハラ」に分類されてしまう。
佳代は相手にわかってもらおうと必死で感情に訴えただけだった。でも稚拙で、未熟だった。なぜか上り調子だったカリスマ社員時代と同じ手では通用しなかった。注意ならまだ内省できるが、先日の課長のような気遣いは、なんともきつい。佳代は溜息をついた。
(私も今や「ご神木」扱い……触らぬ神にたたりなし……)
かつて松があったというスクランブル交差点は、今日も人の往来が激しい。
佳代は、青々と茂る松を想像した。高校の修学旅行で見た、二条城の襖に描かれた松の葉はこんもりと、ふわふわ緑色の雲のように見えて可愛らしかったが、針葉樹なのだから葉の一本一本はまるで棘のように鋭いはずだ。
佳代も、はたから見たら刺々しく見えるのだろうか。
人間は松のようにはいかない。老いてしまったら、周りの人を棘で刺すようなトラブルメーカーなら、いずれは退職勧告されるだろう。
そもそも女性の多いアパレルといえど上位管理職に就く人はまだ少数で、パワハラで降格した佳代はこれから粉骨砕身しても、その狭き門をくぐれないだろう。別会社に転職したとしても、下っ端の自分が最年長になりかねない。
赤信号はすっかり青信号に変わっていたのに、佳代は一歩も踏み出せずに、交錯する人々を見つめた。高いヒールを履いて縦横無尽に、このスクランブル交差点を動き回っていた昔の自分はもういない。今の佳代は前にも後ろにも動けず、ただぼんやりと佇むしかなかったのだ。
交錯する人々の群れの中に、佳代がギャルを見つけたのは、陽がてっぺんに昇りきって影が足元に溜まったときだった。
後編へつづく
教えてくれた人
- 豆ばやし杏梨
フリーのコラムニスト。
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